2019年5月23日

はじめ塾「終戦記念コンサート」英語版

昨年「はじめ塾」の夏の合宿で「終戦記念コンサート」を実施した時に録画したものを三納さんが短縮してYouTubeにあげてくださっています。それを、「はじめ塾」をサポートされている池上(いけのうえ) 眞平さんが、外国人の知人の方たちにお観せしたところ、大変評判が良かったということで、外国人向けのことを考えたらどうか、という提案をいただき、実現に向けて1月に三納さんと3人でミーティングをしました。

最初池上さんは、歌詞は日本語でも心が通じるというお考えで、簡単な英文の説明を挿入するということにしていましたが、そのあと三納さんが「一本の鉛筆」の英訳をWebで見つけたということで、「一本の鉛筆」だけでも英語の歌詞を入れることにしました。そうしてみると、私も三納さんも「他の曲も全部英訳を入れたくなるね」という気持ちになってきました。

そんな時に、三納さんのお友達で、私も何度かお会いしている音楽にも英語にも堪能な大倉明治さんが英訳して下さるということになったのです。それからが大変な作業が始まり、歌詞の主旨に沿うためには英訳も色んなニュアンスの違いが出てくるので、英語に詳しい池上さんも大倉さんの英訳に対してのご意見などをくださいまして、三納さん、大倉さん、池上さんの間で、何度も何度もメール交換が繰り返され、この程ようやく英語版が完成しました。

私はそのメールを眺めながら、お忙しい御三方がこんなにも真剣に取り組んでくださっていることに、申し訳ないやら、嬉しいやらで、なんとお礼を申し上げたらいいのか分からないという気分でおりました。

 そして完成したのが、この YouTube にアップした作品です。身に余る光栄としか言いようがありません。それでも大倉さんからは「歌の内容に惹かれるものがあったので興味をもって英訳することが出来ました」というような内容のメールをいただき、池上さんも電話で「とても楽しい作業でした」と言ってくださったので、ホッとしました。

私たちの歌が英語になるとどんな表現になるかも興味をもってご覧いただけたらと思います。そしてこのメッセージが世界の人たちに届いたらと思うばかりです。

2019年5月13日

令和の始まりは大きな「虹」

5月26日は「第2回おんがくの郷♪音楽会」です。昨年10月は、まだ「紫陽花スタジオ」がまだまだ整っていない状態でしたが、とにかくご近所の方々にはご挨拶の意味でなんとか第1回の音楽会をしなければ、ということで実施しました。今回は本田が本業の建築の仕事を一段落させて、スタジオの整備に専念したので大分整ってきている状況にあります。そして近隣の皆さまのご協力のおかげで、音楽会の予約も早くから申し込みをいただいています。

そんなところへ、仲間の島田実さんがスタジオ状況を見に、訪ねて来てくれました。島田さんも昨年から秩父の方に移住してきているのです。私が母屋にいると、本田から「すごい虹が出ているから外に出て!」と電話がかかってきました。すぐに出てみると、今まで見たこともない大きな虹が架かっているではありませんか!自然に詳しい、さすがの本田もこんな大きい虹は初めて見たそうです。

しばらく3人で驚きながら見上げていましたが、私は夢中でスマホで写真を撮り始めました。

そして、東日本大震災が起きた年の秋、初めて気仙沼に行った時の虹を思い出しました。私が被災地での慰問コンサートをしたいという思いを、皆さんの協力を得て実現することになった記念の日のことです。その時は整体と私の歌のコラボということで、整体の会社「大勝」の會田社長がマイクロバスを運転して整体師の方たちと一緒に出掛けました。途中から雨模様になり窓に激しく叩きつけるようになりました。ところが気仙沼に到着してみんな降りると雨が上がり、大きな虹が架かったのです。それはもう、気仙沼が私たちを歓迎してくれたと思うほかありませんでした。それが私のボランティア活動の始まりとなりました。

そして今、令和に入りいよいよ看板も完成し、「おんがくの郷」の本格的な活動が開始されるこのタイミングです。私たちが「大丈夫だよ」という天からのメッセージのように感じたのは無理からぬことではないでしょうか。

それに、看板のデザインをしてくださった三納さんが、虹の下で、私と舞(天国の私の子ども)がミックスされたような女の子がギターを弾いているイラスト入れてくださった、という不思議なおまけつきです。

5月1日から、風邪で38度2分の熱を出して体調を崩していましたが、ようやく回復してきました。

26日のコンサートは頑張れそうです!

2019年4月26日

私の「平成」

1989年1月7日、昭和天皇が崩御された。

その日は奇しくも私のひとりっ子「舞」の8才の誕生日でした。母が「なんだか縁起悪いね」と言っていました。

「平成元年」、それは私の激動の時代の幕開けでした。その年の6月24日美空ひばりさんが旅立ち、その頃に舞は原因不明の高熱が続き入院しました。そして7月17日に原因不明のまま病状が急変して亡くなりました。

7月17日(1987年)は石原裕次郎の命日で、「あじさい忌」と名付けられていることを何年も後に知りましたが、私のオリジナルで代表作ともいえる曲が「あじさい」であることがなんだか不思議な気がしたものです。

 それまですべての愛情を舞に注いでいた私の喪失感は大きく、奈落の底に落ちるとはこういうことだと実感しました。

そんな時、急に夜中に天から授かるように歌が降りてきて、それ以来歌が作れるようになり、「行き場を失くした愛情」を世の中の悲しんでいる人々に向ける決心をして、シンガーソングライターとして活動をするようになりました。

母は、父が何度も事業に失敗しても、自分が手に職がないことを後悔した人生だったので、私が職業を持つことに応援をして、食事作りなど家事を受け持ってくれました。その母もまもなく国の難病指定になっている「アミロイドーシス」という末期がんのような病気にかかり、あと「3ヶ月の命」と、私一人に宣告されました。宣告された日、家に帰って号泣している時に、幼い頃にいつも遊びに行っていたお隣のお屋敷にあった紫陽花が浮かんで来て「あじさい」の歌が生まれました。母は透析をうけるようになりましたが、病名は知らせなかったので、腎不全と思って闘病生活を頑張り、2年半も生きてくれました。病院長から「模範的な患者さんでした」と言っていただきました。それから間もなく父はアルツハイマーにかかり、事故で亡くなりました。

そして、舞が亡くなって以来上手くいってなかった夫と2001年に離婚。「家族がいる幸せ」という人生に別れを告げました。

離婚したことをすごく怒っていた弟も肺気腫にかかっていました。その頃はかなり病状も進んでいて、自分亡き後の家族、会社のために準備万端整えているようでした。だから私はぜんぜん迷惑をかけるつもりはありませんでしたが、昔から私のことを「要領が悪い奴」と思っているので、心配だったんでしょう。私が別に頼んでもいないのに、「家族や社員がいるから、おまえの面倒まで見れないからな」と言いながら、「宝くじが当たったらおまえにもあげるよ」とは言ってもらいました。弟「富樫広樹」はバイク業界では知られた存在でした。(記事・富樫広樹


ありし日の弟 右下は「トガシスペシャル」レーシングバイクの1台

レーサーを育ててヨーロッパのレースに参戦した初めてのインストラクターと聞いています。その後は「トガシエンジニアリング」を設立して、独自の部品などを作って「ホンダ」や「ヤマハ」と取引をしていたようです。「トガシスペシャル」というバイクを作った時には話題になりました。離婚後の数年間はほとんど会うこともありませんでしたが、危篤の知らせを受けてからは何度も病院に行ったところ、「おまえが来るっていうことは、今回は俺もよっぽど悪いんだな」と言いました。弟はユーモアがあって人望がありました。そんな時でも、私の服装を見て「なんだその服は、ヤマダ電機の制服か」なんて指適が入りました。それ以来その服は着てません。

若い頃ふたりともサスペンスドラマが好きで、一緒に見ることもありました。甥が、お父さんは「相棒」が好きで良く見ていたけど、私と一緒にサスペンスドラマを見ると、早いうちに私が推理して犯人を言い当ててしまうと言って笑っていた、と教えてくれました。ずっと会っていなくても私を嫌いになっていたわけではなかったと感じて嬉しく思いました。最後に以前のような姉弟に戻れたと感じました。よく喧嘩もしましたが、いつもどっちが年上かわからないような態度で、私に対していつも上から目線でした。今になって考えてみれば、ひとりの男としては、純粋で男らしく、優しい人間だったと思います。

その後、2011年東日本大震災が起きました。その年に私は思いがけなく、卵巣腫瘍であることがわかり、手術をしました。悪性かもしれないと言われた時、やっと私も家族の所に行けると、一瞬幸福感に包まれました。

それは自分でも意外な感情で、こんなにも生きている喜びがなかったのかと思いました。なにか思い残すことがないかと考えた時に、被災地に慰問コンサートに行きたいということでした。そして今に至っています。

平成も終わる頃、またしても思いがけないことが起きて、秩父に「おんがくの郷」を作るということになりました。離婚に至った時、いろんな面で助けてくれて、私の音楽活動への思いを誰よりも理解して、一緒に活動してくれたのが本田です。離婚で一文無しになって、途方に暮れた私をここまで守ってきてくれた本田には感謝をしています。「おんがくの郷」の夢は共通の夢なので、これからも協力し合ってその夢に向かって進んで行きたいと思います。

今、私はなにも後悔していないし、苦難の「平成」を恨めしくも思っていません。むしろ、そのような経験をしたことで、精神面で飛躍的に成長できたことは有難いことです。夢を持つことが出来た今の私は幸せです。

「令和」は夢が実現していく時代になるでしょう。

2019年4月22日

秩父の羊山公園でお花見会

4月15日、五野上久雄さん主宰で毎年続けられているお花見会に参加しました。
私は近藤さんの紹介で初めて参加してから3回目になりますが、五野上さんの友人関係や、元関脇「若秩父」の常盤山親方の関係者たちが参加しています。五野上さんは、今私たちが拠点としている秩父の家が実家です。このようなご縁で、私たちが拠点とすることになったわけです。

1回目に参加した時には常盤山親方もおられて、「芝桜」は「枝垂れ桜」の場所から少し離れた場所にありますが、親方の関係者の皆さんから誘っていただいて、一緒に観に行きました。


羊山公園 は別名「芝桜の丘」とも呼ばれ、秩父の春の名所になっています(写真:枝璃貴子)

親方はその時、病気の関係で首を全く動かせなくなっていて、ずっと正面を向いたまま、芝桜を見ている私たちをベンチに座って見守っていました。親方は地元なので、どこに行っても人気者でした。お馴染みの出店でご馳走になったことが思い出されます。無口でありながら優しさが感じられる方でした。それから間もなく訃報のニュースが報じられ、驚きました。

今回も40人位の参加者たちで盛況になりました。今年は、私のサポーター便りに登場しました「ヒゲるさん」こと中島茂さんがサボテンから作った果実酒を持参されました。その3日程前に近藤さんからメールがあり、サボテン酒が、時を経たら赤い色に変化したということで、五野上さんが感動して詩を作ったとのことです。私に即興で歌ってくれないかということでした。詩を見ると3番まであり長いし、ちょっと演歌風で、即興は無理という感じでした。それで、3日間仕事の合間になんとかまとめて、皆さんに中間発表という形で聴いてもらうことにしました。


満開になった桜の木の下で催された「花見の会」で五野上さん作詞の歌を披露

当日歌って見せた時、皆さんとても喜んで下さったので、このお花見会のテーマ曲にしようと思い、帰ってから詩とメロディをじっくり修正して仕上げたら、かなりいい感じになりました。秩父の地名も入っているので、5月26日の「おんがくの郷♪音楽会」で皆さんに披露することにします。

それにしても、以前2回参加した時は東京から秩父まで旅行気分でしたが、今回は家のすぐ近くから参加することになるなんて、夢にも思っていませんでした。

2019年3月31日

音楽家ユニオンとミュージックの日

「日本音楽家ユニオン」の会員になって30年近くになります。海外にも音楽家ユニオンがあり、国際会議も開かれます。日本よりも海外の音楽家ユニオンのほうが盛んである国が多いようです。

日本は、文化を守り発展させることに力を注がないので、予算が少ないのです。そんなことで、プロの音楽家になる道は年々厳しくなっていて、音楽大学を卒業しても、ほとんどの人が音楽の仕事に就けないという状況になっています。従って、音楽家ユニオンの会員数も年々少なくなっているのが現状です。それでも、音楽家に何か問題が起きた時には裁判にかけたり、音楽家を守る様々な活動をしています。

そんな中、ユニオンが3月19日を「ミュージックの日」(3と19の語呂合わせ)と名付けて、3月中、全国的にコンサートを展開する活動を20数年続けてきました。この名付け親は私の日記にも度々登場している、すずきたけおさんです。すずきたけおさんを中心にユニオンがミュージックの日に力を入れて展開した時期がありました。その一番良かった時期に私も加わっていましたが、今は大分縮小されて、良かった時期を知っているだけに「物足りない」というのが率直な感想です。

私は役員として積極的にかかわった時期もありますが、今は時間的な余裕がないことと、何より役員に向いていないので、フリーポピュラー部門の幹事だけを務めています。 

そして、今年も「ミュージックの日」は開催されました。関東地区の場合、いつもは「個人参加」(それぞれの音楽家が個人で3月中に「ミュージックの日参加コンサート」をする)と、ユニオンが独自の企画で「主催公演」をすることの両輪で来ていました。私はこれまでほとんど「個人参加」をしていて、今年は「秩父のコンサート」として参加しようと思っていたので、「主催公演」への出演はしないことにしていました。ところが今回「個人参加」は実施しないことになったのです。

(↓クリック拡大)

「ミュージックの日」の
手作りチラシ

それで、私は3月10日の「主催公演」のスタッフを引き受けました。この企画は、フリークラシック部門とフリーポピュラー部門が合同という企画です。説明が長くなってしまいましたが、本題はこれからです。これが予想外の事態に陥ったのです。

いつも「主催公演」の準備、実施を仕切る部門にアクシデントが起きて、みんなはチラシが出来るのを待っている状態になっていたのですが、1カ月前になってもチラシもなく、何も進んでいないことがわかり、もう中止にするしかないような相談メールが、フリークラシックの代表からメーリングリストのメンバーに届きました。

私は企画の段階から話し合いに加わっていましたので、即「困難を乗り切ることが音楽家の心意気ではないでしょうか!」と返信しました。ほかの皆さんも「やりましょう!」とぞくぞく返信して、みんなが協力し合って何とか最低限の準備をすることになり、お客さんが一人もいなくてもやろう、という意気込みで実施に漕ぎ着けたのです。チラシも印刷に出す時間もなく、手作りです。

 当日、私は実現できた喜びを感じながらスタッフをしていましたが、途中からユニオンの職員の方が、「もう観に行ってもいいですよ」と言ってくださったので、「音楽家ってな~に?」と「フリーポピュラーコンサート」を全部観ることが出来ました。音楽レベルが高い人が多く、この仲間たちを誇りをもって秩父の「おんがくの郷」に呼んで、少しでもギャラが支払えるようになりたい、と思った一日となりました。

来年のミュージックの日はもっと準備を早くして、盛り上げることが出来たらと思っています。

ところで、3.19を考えたすずきたけおさんは、何年か前にユニオンの一線を退いて、埼玉県で独自で3.19のコンサートを毎年開催しています。私が秩父に拠点を移したのでまた交流が始まり、今年の浦和の3.19コンサートにゲストで呼ばれて、3月21日に出演してきました。秩父の方を色々協力してくださるようです。


埼玉会館で3.19コンサートに出演

すずきたけおさんとデュエット

 

2019年3月11日

東日本大震災から8年「満天の星空」

朝、目を覚ました時、テレビのニュースに「満天の星空」の画像が映し出されました。

それは宮城県で震災の直後、被災された方たちが停電で暗闇になった避難所で見た星空でした。1番光る星が「あれがママだよ」とか、「あれが○○ちゃんにちがいない」と亡くした肉親と重ね合わせたそうです。

その「満天の星空」は、30年近く前、私が秩父の山道を歩いていた時、今までの人生でたった1度だけ見た「満天の星空」と同じ!と思いました。この時は電車の時間に追われていて、立ち止まってゆっくり見上げることが出来なかったことが未だに残念でたまりません。

それ以来、それに匹敵する星空を見ていません。どうしてその時秩父に行ったかというと、私がひとり娘の舞を亡くした頃、友人から風景写真を撮りながら「秩父34カ所札所巡り」をしよう、と誘われたからです。日曜日ごとに日帰りで行ったので、1日に1箇所の時もあれば、近くに札所が何箇所も集まっているところは数箇所廻れる時もあって、それぞれの札所で御朱印帳にお寺の名前を筆で書いていただき、朱色の印を押してもらうのでした。それはずっと続き、34か所全部廻り終えてから、また2回目も34カ所廻り、御朱印帳は2冊になりました。

 ふりかえってみれば、その後私は宮城県の気仙沼に慰問コンサートに行くようになり、そして思いがけなく秩父に住むことになったということは、偶然とは思えない、運命のようなものを感じてしまいます。

そして他のニュース番組では、私たちが何度か訪れた鹿島区の仮設住宅に近い浪江町の現状が報じられていました。いまだに危険区域になっている住宅は子孫に対して負の遺産になってしまうため、取り壊すしかないという決断をして、目の前で思い出の詰まった立派な家が取り壊されるのを見ているご夫妻が映し出されていました。

私が慰問コンサートに行った時の懇親会で、80歳を越えた方たちが私のような者に「仮設住宅を出なくてはならなくなったら、ひとりでもう行くところがない」と訴えかけてくださった人たちの顔が浮かびました。

どうして今の日本がこのような状況を救うことが出来ないのか、と憤りがわいてきます。

 先日来、「枝璃貴子の活動を支援する会」発足から1年が経ち、活動報告と決算報告を作って会員の皆さんに送る作業で大変な日々を過ごしました。仮設住宅が無くなった今、慰問コンサートに行くことは難しくなり、違った形のボランティア活動になってきました。それにもかかわらずご支援して下さった皆様には感謝の気持ちでいっぱいです。

先日、支援の会の相談役をしてくださっているアントニオ・古賀さんからお電話をいただきました。

私の活動報告を評価して下さいました。私が「資金繰りは厳しいです」と言いましたら、「みんなそうだよ」と、「ボランティア活動は難しい。それでも頑張って続けるからこそ達成感の喜びは大きい。私たちは、やってあげているのではなく、やらせていただいているのだから」というようなことをおっしゃっていただきました。

なんだか、勇気がわきました。

 

2019年2月28日

秩父オペラ

2月16日、秩父宮記念市民会館(ちちぶのみやきねんしみんかいかん) で催された「おぺらをたのしもう!3」という「子どものためのオペラ体験ワークショップ」に行ってきました。

「おぺらをたのしもう!3」のチラシ(クリック⇒PDF)

話は元日に遡りますが、初詣に行った時に、町内の方から元音楽の先生をしておられた四方田( よもだ ) 恵子先生を紹介していただきました。四方田先生は、秩父でずっとオペラを上演されているソプラノ歌手の園田真木子さんを応援されておられるとのことでした。「秩父オペラ」として有名だそうです。それは私が声楽を習っていたボーカルスタジオの加藤千恵先生が何年にもわたって市民オペラを続けていたことを思い起こさせるお話でした。そのことは以前WEB日記に書いています。(2013年3/24「椿姫」4/3「続・椿姫」

私は小学校の年生頃から市民オペラを観に行っていて、出演者の人たちは楽器店の父と親しい人たちでしたし、私自身も高校年生の時に参加しましたので、酒田の思い出が蘇って懐かしさでいっぱいでした。酒田と秩父がまさにシンクロした感じになりました。

舞台の私(向かって左側の短いスカートのドレスを着ているのが私)
(クリック⇒拡大)

そしてその日は、民生委員の長島恵美さんにもご挨拶をしましたが、後日長島さんが家に来てくださって、四方田先生から預かった、オペラのチラシも持ってきてくださったのです。

長島さんは、引きこもりやいろんな問題にかかわっておられるので、私の活動のことも大変理解して下さってお話も弾みました。

そんなことから、16日はちょうど秩父にいる日だったので観に行くことができたわけです。四方田先生が出迎えてくださって、歓待していただきました。

子供さんたちが多いのかと思って行きましたが、子供さんより大人の方が多かったので驚きました。

出演者は、園田先生を中心として、秩父出身で活躍されている若手の声楽家たちでした。子供たちを楽しませるすべを心得ていて、すごくユーモアがあって、子供たちの笑い声でいっぱいでした。

そして驚いたのは、みんなで「うたってみよう」の曲が、プッチーニ作曲のオペラ「ジャンニ・スキッキ」の中で歌われるアリア「私のお父さん」だったのです。皆さん、ご存知ですか?

オペラ好きの人たちにとっては、有名な歌ですが、一般的には有名とは言えない歌だと思います。それが会場の皆さんが堂々と歌っているんです。私の後ろの人がとても上手に歌っていたので、音大生かな?と振り返ってみましたが、一般の奥様たちのようでした。これだけでも秩父はオペラが盛んだということを実感できて、なんだか嬉しくなりました。秩父は「酒田と似ている!」ということが多いような気がします。

四方田先生が、皆さんに枝璃貴子という人が秩父に来た、ということを伝えますからと、私の名刺をたくさん持って行ってくださいました。

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2019年1月30日

近藤さん宅でミニコンサート

1月20日、色々ないきさつがあって、近藤さんのお宅でミニコンサートをしてきました。

近藤征治さんのことは、絵の個展や、詩人の松永伍一先生の記念碑など、何度かWEB日記に書いています。よろしければ過去のWEB日記をご覧いただけたらと思います。

お宅に伺うことになったいきさつは、昨年の10月21日に遡ります。

実は数年前から奥様の芙美子さんの目が急に見えなくなってきて、一昨年からは全く見えなくなってしまいました。芙美子さんとは、まだ目が不自由になられる前に音楽会の折にお会いしています。それ以後は、私のWEB日記を近藤さんがいつも読んで聞かせてくださって、素晴らしいご感想をいただいておりました。私が数年前に心理カウンセラーの資格をとってソングセラピストになった時に、近藤さんが芙美子さんにソングセラピーしてもらおうかな、と言ってくださったことがありました。でも芙美子さんがまだそんな気になっていないと伺って、どんなにか深い悲しみのなかにおられるのだろうと思っていました。私も子供を亡くして間もない頃は、誰にも会いたくなかったし、外に出るのも嫌でしたから。その後も被災地などにお誘いしたこともありましたが、出かけるのは無理ということでした。

そんな芙美子さんが、秩父でのお披露目コンサートの時に、私にご祝儀を手渡したいとおっしゃって、近藤さんの車で新座市から来てくださったのです。その日は日曜日で道路が混んでいて、体調が悪くなってしまい、コンサートを聴かないですぐ帰られるということでした。私の秩父でのスタートを祝うために具合が悪いのにお祝いを手渡してくださった芙美子さんを見て、私は思わず泣きそうになりました。その時、それでは私が近藤さんのお宅に伺ってコンサートをすると約束をしたのです。

18日は島田さんのお父様の葬儀があって、予定外で吉祥寺にいることになって、20日が空いたので、急きょ伺うことになりました。

近藤さんはそれまで全く家事をしたことがなかった方ですが、芙美子さんの介護と家事全般を受け持つことになって、「家事ってなんて大変なんだろう!」と、おっしゃっていました。それがなんと、私に手料理を作ってくださるとのことでした。最初はお昼ごちそうになって、数曲歌って、と気楽に考えていました。

そして何を歌おうかと考えている時、とても難しいということに気が付きました。芙美子さんの絶望を考えたら、少しでも神経を逆なでするような歌は決して歌ってはいけない。それに近藤さんは以前のように色々な活動ができなくなり大変そうなので、近藤さんの癒しにもなるようにしたいと思うと、すごく選曲が難しくなりました。その時、南相馬の仮設でコンサート(WEB日記2014年9/12南相馬「歌とお話の会」)をしたときの、皆さんの心が凍り付いている表情が浮かんできました。だから私は心理カウンセラーの資格を取ってソングセラピストになったんだ!と思い出しました。それ以来セラピーコンサートは何度か実施してきましたが、パーソナルソングセラピー(個人に対するソングセラピー)は看板を掲げたものの、まだ一人も申し込みがないまま来ていました。考えてみれば、それはまさにパーソナルソングセラピーだったのです。近藤さんたちにはそう思われないようにあくまで気軽なコンサートのようにふるまおうと思いました。絶対に成功させなければならないと思うと急に緊張してきましたが、慎重に考えて6曲選びました。

当日、ご夫妻が大歓迎で迎えてくださいました。先に昼食でしたが、私は絶対に良い声で歌うために後でいただくことにして、早々にミニコンサートを開始しました。

例えてみれば、普通のコンサートはサプリメントを提供する思いです。セラピーコンサートは、風邪の人達であれば、総合感冒薬を差し上げる思いです。パーソナルソングセラピーの場合は、喉が痛いなら喉の薬、熱があるなら解熱剤を差し上げる思いです。

私は芙美子さんのことを思いながら歌いました。歌い始めると芙美子さんが「いい声!」と声をかけてくれました。何かを感じていただきたい歌詞の言葉には自然に力が入りました。「水たまり&あじさい」を歌っているときに、急に近藤さんがスマホで動画を撮り始めたので、気が散って歌詞をちょっと間違えてしまいましたが(笑)、他は私の思い通りに歌うことが出来ました。近藤さんが芙美子さんに「おかあさん、泣けるね」と言っていました。

それでホッとして、近藤さんの手料理をいただきました。珍しいイノシシのお肉や、私の好きなアボカドや果物がたくさん入ったサラダや、かす汁をご馳走になりました。とても美味しかったです。芙美子さんは本来明るくひょうきんな人のようで、デイサービスに行っているとき九州出身なので「よかよか」というと、周りの人たちにウケていると嬉しそうに話していました。面白かったのは、ご自分はトイレに近藤さんの手を借りて行ったのに、本田が「トイレ借ります」と言ったら、「私が一緒に行きましょうか?」と、とっさに大真面目な顔で立ち上がろうとしたので大爆笑でした。

私もそうですが、悲しみや苦しみを、人前では見せないようにする性格のように感じられました。何十年も普通に暮らしていた人が急に目が見えなくなってしまった悲しみ苦しみは、いくら想像してみてもご本人でなければわかりません。ただただ寄り添うことしかできないのかもしれません。でも以前はデイサービスに行くのを嫌がっていたそうですが、少しずつ前に進み始めたこともあるように思えて嬉しくなりました。

近藤さんから次のようなお礼のメールをいただきました。

翌日のメール

昨日は芙美子さんにとって「 旱天 ( かんてん ) 慈雨 ( じう ) 」でした。この世に神とか仏があって慈愛をいただくことがあります。

カラカラに乾ききって大地がひび割れするように、日々苦しみ悲しみ悩み心が痛み病んでいる、そのようなときに一瞬光明が心の中に入り込み心を潤し癒されほっとすることを言うそうです。

再度芙美子さんから伝えてくださいとの事です。ありがとうございました。

後日のメール

慰問コンサートについては、私も癒されました。5,6年前から極端に視力低下し、要介護2と認定され、一昨年からは全くと言っていいほど視力0となり、介護3と認定されました。数年前までは家事の事は何にもしなかったし出来なかった私ですが、現在では終日の介護(身の回りの世話、トイレ・風呂の介助、散歩介助など)と家事全般(三食の買い物や料理、掃除・洗濯、その他)で目が回るような毎日を送る中、週一回のデーサービスの日が心身を休める一番いいひと時です。そのような中、枝璃さんと本田さんがギターを携えて我が家を訪ねてきてくださり、そのこと自体が嬉しくて涙が出ました。そうして、何時も聴いている枝璃さんのギターと歌声が全く違った「今までに聞いたことのないような味わい深く美しい音色」。心の奥底まで響き渡りました。

とても嬉しい内容だったので、WEB日記に書きたいと思いましたが、芙美子さんの目が見えなくなったことを公表することになってしまうので、書かない方がいいですね。とメールをしましたら、思いがけない返信メールをいただきました。

ところで質問の件、妻・芙美子さんは枝璃さんのセラピーソングでとても癒され大変ありがたく嬉しかった!そして「長生きできそう」と喜び感動していました。本人にWEB日記のことを話しましたら、まったく気にしないで書いてくださいと言っております。素直に、本当の事であるから間違ったことを書かなければ「目が不自由とか、悲しんでいるとか、苦しんでいる」なども枝璃さんが感じたことを自由に書いてもかまいませんと言っております。そして枝璃さんの、苦しんでいる方々に寄り添う音楽活動に感銘を受けます。これからも私のような人には力を与えてくださいとも言っております。

これを読んだ時の感動と言ったら !!!

私が子供を亡くしてシンガーソングライターになった時、自分をさらけ出して他にも悲しみ苦しみを抱えている人達の希望になろうと決心したことを思い出しました。

なんて大きな心と勇気を持っている人なんだろう、と思いました。芙美子さん自身も皆さんの希望になっていける人なのではないかと思います。

これは結果的なことですけど、近藤芙美子さんはパーソナルソングセラピーを受けていただいた第1号の人となりました。

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2019年1月24日

島田さんのお父様

1月18日、101歳10カ月で旅立たれた島田実さんのお父様、島田照三郎様とお別れをしてきました。


お元気な頃のお父様
(2017.4.25撮影)

島田さんのご両親のことは以前のWEB日記(2017.3/25「百歳のお誕生日」)で紹介していますが、私が初めて、すべて自作自演のCDアルバム「届けたい思い」を作った時、毎日のように私のCDを聴いていただき、私の大ファンと言って下さっていました。もちろん、私もお父様とお母様が大好きで、お二人の大ファンという間柄でした。

2週間くらい前に島田さんから電話をいただいた時、病気で入院していたことや、病院から帰る時、意識がないはずなのに、急に島田さんの腕を掴んで「この次来る時はもういないかもしれないよ」と言われたことを聞いていました。最後まで子供思いの優しいお父様であったと思います。

私がこの夏、熱中症の脱水症になった時に立ちあがれなくなったりしたことを日記に書きましたが、その頃お父様もそっくりな症状になって、島田さんが「そうか、脱水症だったのか」と言っていましたが、それ以来いろいろと具合が悪くなっていったそうです。あの異常な暑さは高齢者にとって残酷なものだったんですね。

子供の時に洗礼を受けた敬虔なクリスチャンのお父様なので、告別式は「日本キリスト教団渋谷教会」で行われました。本格的なキリスト教の告別式に出席したのは初めてでしたが、大変厳かなものでした。賛美歌をみんなで4回歌った後、お父様のプロフィールが紹介されました。一橋大学を首席で卒業され三井物産に就職、その後英語の同時通訳などをされていたそうです。一番のハイライトはなんといっても戦争でシンガポールに赴任していた時に、中国人のお母様との大恋愛の末、幾多の困難を乗り越え、結婚されたことです。

若い頃の素敵なお二人

そのことはご本人からまるでドラマを見ているような臨場感をもって話していただいています。若い時のお写真はすごいイケメンでびっくりしました。お母様もすごく素敵です。ずっとお母様をひとすじに愛しておられたそうです。島田さんは独身ですが、4人兄弟なので、お孫さん達もおられて、映画タイタニックのバックで流れていた賛美歌をチェロで演奏されたり、耳元でいつも歌っていたというお孫さんが「Time to Say Goodbye」を独唱されました。

幾多の困難を乗り越えて結ばれたお二人の結婚式

私は子供を亡くして以来「人間の死」とは、壊れてしまったり、古くなっておんぼろになった肉体を脱ぎ捨てて、魂が軽やかになって身体から離れていくのだと信じるようになっているので、告別式に出席して慟哭するということはないのですが、棺にお花を入れる時さすがに涙がこみ上げてきました。

お父様との思い出は私にとって、とても貴重なものでした。一昨年の3月に100歳のお誕生日を無事に迎えられて、4月の私のライブコンサートに来てくださった時、コンサートの冒頭にお客様全員で100歳のお祝いの祝杯をあげることができたことは、ほんとに嬉しい思い出です。(WEB日記2017.4/16「わがまま気ままコンサート」)

穏やかで、優しくて、知性的で、面白くて、最後まで人気ものだったお父様、私も大好きでした。

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2019年1月15日

思いがけない新しい出会い

昨年の12月30日、吉祥寺から秩父に帰った翌日、突然思いもかけない電話が入りました。

「矢郷です」と言われて、「えっ?」と思いました。私の知っている矢郷さんは同年代で、電話の声は明らかに若い女性の声だったからです。矢郷恵子さんの娘さんだったのです。その前日、矢郷さんが亡くなられたという電話でした。

矢郷さん(写真)とは20数年前に田無神社で知り合いました。当時、賀陽宮司さんは広い人脈をお持ちで、いろんな分野で活動されている人々が神社の行事の折などに集まっていました。私も友人の紹介で、ギター弾き語りを披露して以来宮司さんに応援していただくようになっていました。矢郷さんは世田谷区で自主保育などに関わって活躍していたようです。私のコンサートにもいつも来ていただくようになり、手頃なコンサート会場を何度も紹介していただいたりもしていました。でも、東日本大震災があって以来、私は被災地の方の活動にかかわり、めっきり普通のコンサートをしなくなりました。それに加えて賀陽宮司さんという大きな存在が天国に旅立ち、田無神社にも行かなくなりました。矢郷さんも世田谷区での活動に忙しかったようで、もう8年近く会う機会をなくしていました。

電話の内容は、昨年6月から癌にかかり闘病生活を送っていたそうです。お母さんの希望で、告別式で私に「つる」を歌ってもらいたいとのことでした。私はとっさに、昨日秩父に来たばかりで、明日は秩父で初の氏神神社での行事に参加したり、秩父でのいろんな計画があったので、「またすぐ吉祥寺に行くのは無理だ!」と思いました。体力的にも自信のない人間ですから‥‥ 。それで、「今秩父におりまして~」と無理そうな話を始めると、娘さんは必死に断られないようにしなければ!という感じになりました。いつ矢郷さんがその希望を話していたかを聞いてみると、8月に抗がん剤治療が始まってすごく苦しい状況になった時に、YouTube で私が「つる」を歌っているのを見せてそのように言われた、とのことでした。それを聞いたとたん、「行こう!」と心が切り替わりました。

そしてだんだん昔のことが思い出されてきて、確か娘さんと2人暮らしだったようで、お会いしたことはありませんでしたが、桃さんというお名前で、カメラマンをしているようなことを聞いたことがありました。ある時矢郷さんと2人で食事をしていた時「私の葬式のとき『つる』を歌ってくれない?」と冗談のように言ったので、私が「いいよ!」と言っていたのでした。

3日に吉祥寺に行き、4日の告別式に出席しました。献奏として「つる」を歌い、献花の冒頭に「あじさい」を歌うことになりました。当日は広い会場に座りきれないで、入り口の所にたくさんの参列者の人たちが立っておられるほどの人数が集まりました。世田谷でどれだけ貢献してきたのかが伺え、世田谷区長さんの弔辞もありました。

私は歌い出してみると、自分で意外なほど緊張しているのに気がつき小さいミスもありましたが、聴いている方々にはわからない程度だったようで、式が終わってから何人もの方々から素晴らしかった、と声をかけていただきました。なんとか矢郷さんに喜んでもらえる役目を果たすことが出来たとホッとしています。


桃さんからの写真

 その後、桃さんと何度かメールのやりとりをしましたが、花の写真を多く撮っていて、秩父にも友人がいて写しに来ているとのことでした。とても可愛らしい感じの方で、私との出会いを喜んでくださって、秩父に来る時には必ず連絡をいただくことになりました。矢郷桃さんのWEBを拝見してみると、私とマインド的に似ているところがあり、お会いするのが楽しみです。「あじさい」は桃さんの希望もあって歌ったのですが、告別式の写真の他に、こんなコメント付きで紫陽花の写真を送ってくださいました。

あじさいは大好きな花で、

咲いているところも好きですが、

立ち枯れている様子もとても好きです。

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2019年1月5日

氏神様である神社に初詣

明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

今年の初詣については、秩父に移って間もないころから何かとお世話になっているお向かいの島崎さんが、昨年暮れに氏神様である神社のことを説明に来てくださって、私が積極的に参加する旨を伝えました。

それでいろいろ手配をしてくださり、招待の方々が本殿の中で祈祷していただく正式参拝に加われるようにしてくださいました。

後になって、その神社が私にとって色々とご縁があることがわかって、驚くばかりでした。今は神社を大事にする人が少なくなって閑散としていますが、なんと!御柱祭で有名な長野県の諏訪大社の分社だったのです。しかも全国に1万2千ある分社の中で11番目の「諏訪大神社」です。そして、「おんがくの郷」の住所の秩父市 小柱 ( おばしら ) は、 御柱 ( おんばしら ) からきているのだそうです。このことだけではそれ程私と縁があるということには繋がらないでしょう?実は何年も前から親しくさせていただいている鎌倉悦男さんはプロデューサーとか映画評論とか監督とかいろんなことをされておられる方ですが、鎌倉さんプロデュースで一番熱をもって私に観せて下さったのが、ニュースステーションのドキュメンタリーとして放映された「御柱祭」のビデオだったのです。しかも撮影したカメラマンの城尾さんは阿佐ヶ谷だったので、帰りはいつも一緒に帰っていました。2011年に開催した「東日本大震災チャリティーコンサート」の時にビデオを撮ってくださったのも城尾さんです。カメラマンは重いカメラで動き回るので、ウォーキングなどで身体を鍛えていると言っていたガッチリした体格の城尾さんだったのに、思いがけなく突然病気で亡くなってしまいました。鎌倉さんはじめ、私たちもどんなに悲しんだかしれません。

(クリック拡大)

三納さんが編集して下さって一昨年DVD「東日本大震災チャリティーコンサート」を制作しましたが、三納さんも「さすがにカメラワークが上手い」とおっしゃっていました。挨拶文の中で「カメラマンの城尾尚広さんに捧げます」と記載しています。

今鎌倉さんは故郷の姉上さまの介護のため、ほとんど長野におられるので、秩父にはまだ来られていませんが、この話をしたらどんなに驚かれることでしょう。

 元日は10:30に集合して、11:00から祈祷をしていただきました。その後、 直会 ( なおらい ) で皆さんとご一緒に飲食を共にして、私と本田を「新しい氏子が加わりました」と紹介してくださいました。町内の有力者の方々と色々とお話することも出来ましたし、皆さんに歓迎していただき、参加してよかったと思いました。市民オペラに力を入れておられる方や、民生委員をされている方がいらっしゃいました。元機動隊だった若いお巡りさんもいて、私は刑事ドラマが大好きなのですっかり仲良くなりました。このところ何度もバイクに乗ってくる賽銭泥棒がいるので、いつも神社に来ているそうです。

10月にお披露目コンサートをしたことは知られているようで、「行けなくてすごく残念でした」と言って下さった奥様もいらっしゃいました。

春夏秋冬、年4回行事があるそうなので、出来るだけ予定を調整して参加しようと思っています。

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