近藤芙美子さんの「こころのお便り」

 

2019年3月6日
近藤芙美子

第2話「生い立ちと目の障害」

数年前から好きだった読書も儘ならず、テレビも楽しめなくて新聞も読めなくなりました。現在では難聴でもありますが補聴器をかけてラジオを聴くことが楽しみです。夫の征治さんが1日に1回は新聞と本の一部分を大きな声を出して読んでくれますので、心の癒しになり嬉しいひとときが持てています。

最近では五木寛之さんの「大河の一滴」を読んでくれました。平成10年征治さんが突然に会社を早期退職すると告げられた時に、2人で歩んだ過去を色々と振り返りながら買い求めたものですが、その本の帯には「人生は苦しみと絶望の連続だ。地獄は今ここにある。その覚悟が定まったとき、真の希望と生きる勇気が訪れてくる。ブッダも親鸞も究極のマイナス思考から出発した」と記されています。その時読んでみたいと思った心境と、年老いて身体障害となった現在の心境とは大きく違っていますが、征治さんが再度読んでくれている言葉を聞いていると、心に響くことばかりでした。

私は、この歳になり緑内障という難病になって、何もかも見えない状態になりました。悲しみと苦しみのなかで、悔しい思いもしました。「何故?」という思いは拭い去ることもできず、悟る事も出来ないのは事実です。時々、私の生まれ育った幼い頃からのことなどを考えながら原因を思い巡らしています。

読書中の私 2007年(65歳)頃

私達の年代は太平洋戦争を挟んで貧しい生活を強いられました。皆が貧乏で、悪環境の中で生き抜いてきました。食糧難で栄養不足になり、いろんな病気になった人達は、現在のような高度な医学ではなかったために、治療することができずに早死にする子供も沢山いました。

私の父は戦前に警察官職試験に合格して、母と一緒に朝鮮にわたり警察事務職に従事しました。私は渡鮮後に慶尚南道で生まれ大田・溝部というところで育ちました。4歳になる前に終戦となり、母は父を残して兄2人と私の手を引き命からがら引揚げてきました。作家のなかにし礼さんの「赤い月・上下巻」を読みましたが、旧満州(中国東北地区)の開拓地からの引揚者の悲劇はこの世の事とは思えないような悲惨続きだった事を知りました。母から聞いた話では私達はそこまでの緊迫感ではなかったが、何時殺されるかわからない生死の中での逃避行だったようです。

食べるものが少なかったのでお腹がすいて朦朧としていたことを微かに覚えています。引揚船で九州の港に着いた時、母はとても喜んでいましたが、私は何かを食べたい一心でした。港の傍に「小さなうどん屋」がありました。母は店でうどんを注文しましたが、出てきた麦うどんは硬くて真黒くて、我慢しきれないほどの空腹にも関わらず、変な味で食べられたものではありませんでした。上陸後の日本での初食事は今も忘れることができません。

母の実家(松永伍一先生の実家の近く)にたどり着いたものの、その家には大勢の家族が生活していて、私達の居場所はありませんでした。毎日の食糧も少なく、栄養失調になりました。父は警察事務の後始末をしてから引揚げることになっていて、何時の帰国か分かりませんでした。母と兄たちと私は、毎日早く生きて帰ってきてほしいと祈るばかり、心配でなりませんでした。

その家には長く留まることもできず、近くで間借りすることになりましたが、どちらも良い思い出はありません。九州では昔から男尊女卑の風習があって、男子は大事にされるが女子は“ほったらかし”でした。

1年が過ぎたころに父は無事に帰国しましたが、直ぐに職探しだったようです。住まいも2,3か所を転々としました。真面目で勤勉な官職だったこともあり、運よく食糧事務所長として迎えてもらいました。

しかし、その後の引揚者に対して、保守的な農村地帯での人々の受入れ対応は厳しいことばかりでした。長兄は小学校6年生の時地元の子供達から「引揚者は邪魔者」と、石を投げられて額に大きな傷を負い、その傷は生涯消えませんでした。「戦争」と「九州の地」を、他界するまで恨んでいました。私自身はその間に栄養不足で、身体は痩せ細った上に麻疹(はしか)にかかり高熱を出してしまいました。

当時の医療技術は乏しくその麻疹が原因で視力が極端に低下し、難聴も併発しました。幼い頃から読書好きだったので、それからは眼鏡とコンタクトレンズは手放せませんでした。

26歳の時、征治さんと見合いをしました。征治さんのお父さんが「芙美子さんは目が悪いようだが大丈夫か?」と言われたそうです。私はショックで悲しくてなりませんでした。征治さんは「全く気にしていない」と言って下さったのです。嬉しくてたまりませんでした。

コンタクトレンズ使用で日常生活は支障なく過ぎてきました。36歳の時、主人の会社勤務関係で東京板橋の社宅に住むようになって、それ以来事務の仕事をすることになりました。そんなある日、自転車通勤の途上、運悪くトラックに後ろから追突されて大事故に遭いました。3m飛ばされて鉄柵支柱に頭を激突し大量出血、生死の境を1か月近く彷徨いました。医師団の懸命の処置により運よく死なずに済みました。しかし退院後、元々弱視だった上にその頃から視力が一段と低下してきたので、眼科通院することになりました。その眼科病院で白内障の手術もしました。

現在の埼玉のマンションを購入してから、バス、電車を乗り継いで通院していましたが、ある時から急に階段を降りる事ができなくなりました。眼科病院や総合病院、数か所に診察相談しましたが、どの眼科でも緑内障が相当に進行していて手遅れであることを告げられました。数年前までは何とか日常生活をこなしていましたが、2年前から全く見えなくなってしまいました。板橋の病院で、もっと早く緑内障が発見できなかったのかと悔やみましたが、今では「私の運命」として受止めて生きて行こうと決心しています。お陰で征治さんが優しくしてくれて家事介護一切をしてくれますので有難く助かっています。

最近時々、枝璃貴子さんの愛娘「天使・舞ちゃん」の事を思い出します。この度の我が家でのミニコンサート実現も舞ちゃんからの「天の声」ではなかったかと思ったりもしています。

2回目の「こころの便り」を終わります。3回目は「人間の運命の岐路」をテーマにします。

◇ ◇ ◇

【枝璃貴子より】

私も時々「天の声」を聞いたような気がする時がありますが、(歳で天国に旅立った私の一人娘)舞ちゃんなんでしょうか?

いつも芙美子さんがそのように受け止めてくださるので嬉しいです。

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2019年2月25日
中島 茂

近藤芙美子様 への手紙

近藤征治近藤芙美子様

芙美子さん、ヒゲる中島です。いつも旦那様の征治さんにお世話になり、この歳まで、あと40数日で96歳まで生き延びてきました。

ところで、先日旦那さん、征治さんからお聞きしたのですが、びっくりたまげた、普通ならあり得ないような嬉しい出来事が、あなたの家のリビングで展開されたというのですね !!!!  あの有名な歌手、枝璃貴子の、目の不自由なあなたを慰めるためのパソナールコンサートですね。ヒゲるは更に征治さんから教えられて、その場の状景を生々しく伝える枝璃さんのホームページの中のWeb日記を開いてみました。そこで見たのはコンサート前後の枝璃さんの温かい心遣いや終わってからの感想、そして美しい歌声に癒され、深い感謝の気持ちを伝える近藤さんご夫妻の会話、まるでその場の4人の息吹が漏れ伝わってくるような、迫真の情景が語られていて、ふっと気付いたとき、ヒゲるまで癒されていました !!!!

近藤さんご夫妻は典型的な「九州男児」「九州女子」と常々お見受けしております。豪気、勝気、陽気の諸徳を備えておられ、とくに征治さんは損得の考えなしに人の面倒を見られる方です。ヒゲるは近藤さんが現在お住まいの、モアコート志木マンションに管理人として赴任、数年間の勤務と定年退職後の今日に至るまでの30年間、近藤さんとの交流は絶え間なく続いており、面倒を見て頂いております。近藤さんの現役時代には会社人間として、そして他面では芸術の才能にも恵まれ、多彩で忙しい人生を送っておられましたね。そのようなご主人を芙美子夫人は、天与の九州女性の特性を生かして、よく支えてこられましたね。

そのような芙美子夫人のあるときある日を、象徴的に垣間見るようなスナップ写真を、ヒゲるは手許から拾い出してみました。この写真は田原さんの説明書きにあるように、2010年4月4日、埼玉県比企郡滑川町の国立森林公園での花見会での一コマです。

この写真の中で、ひときわ明るく目立っているのは芙美子夫人です。この写真はなんのことはない、征治さん自身が当日撮りまくったものの1枚です。このような会の企画役はいつも近藤さんです。この公園での近藤、中島両家交流会の記録はとても長くなりました。始めの頃の会には芙美子夫人のお兄さんも参加され、春の花見か秋の紅葉狩りとか、年に一度の会合を楽しんできました。歳を重ねているうちにメンバーの数もだんだん増え、このとてつもなく広い(304ha、東京ドームの65倍)国立公園の中で、最も見晴らしの良い小高い丘に定席を設けて宴会が始まります。

(クリック拡大)
近藤 征治
国立森林公園での花見会(2010.4.4)
前列左から2番目が芙美子さん 後列左から田原さん 中島さん 右から2番目が近藤さん

この公園は実に不思議な空間です。丘の上から見渡すと周囲はすべて原始林、輝くような樹間からこぼれ見える春の桜や秋の紅葉、人々はみなこの原始林の醸し出す美しさ、温かさに包み込まれてしまいます。宴が進みアルコール度も深まるにつれ、参加者たちは飲めや歌いやと大盛り上がりになりになり、歓喜を爆発させます。まるで青春時代の真っただ中にたち戻ったかのようです。また人によっては、青春時代の感覚を更に超え、「原始時代の中で裸人間の自分の姿を見る」、とまで吐露する人もいるので驚きです。「年はとっても心は20歳(はたち)」という言葉がありますね。これは名言だと思います。だれしもこれを実行したいものです。芙美子さん、大事なご主人ともども、これからの青春を楽しんでいきましょう。そこでヒゲるは芙美子さんに負けじと、次の、若い歌を歌います。

聞いてチョウダイ。

舟木一夫に代わってヒゲル歌う学園広場

(画像をクリックしてお聴きください)

空に向かって 上げた手に
若さがいっぱい とんでいた
学園広場で 肩くみ合って
友と歌った 若い歌

涙流した 友もある
愉快に騒いだ 時もある
学園広場に 咲いてる花の
ひとつ ひとつが 想い出さ

僕が卒業してからも
忘れはしないよ いつまでも
学園広場は 青春広場
夢と希望が ある広場

以上で〜す。
中島 茂 
東松山市松山町 

◇ ◇ ◇

【枝璃貴子より】

中島さんとは一度お花見の会でお会いして、中島さん著の「マッカーサーはどんな人」をいただいたことが あります。「ヒゲるのつぶやき」というブログにプロフィールや書籍について出ています。

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近藤芙美子さんの「こころのお便り」

私は、枝璃貴子さんの音楽活動を支援している近藤征治の妻です。

今では緑内障を患って殆ど何も見えない状態となりました。そのような中、突然の事でしたが1月20日(日)、枝璃貴子さんに我が家でミニコンサートをしていただきました。嬉しくて涙が止まらないくらい感動しました。

後日、夫から枝璃貴子さんのホームページの中にある「サポーターからのメッセージ」への寄稿の話を聞かされました。最初は躊躇しましたが、真面目に音楽活動を続けておられる枝璃貴子さんの少しでもお役に立てればと思い、言葉は上手くありませんが、何回かに分けて寄稿したいと思います。

元気で若かった頃から現在までを懐古しながら、感じたことや思い浮かべることなどを数回に分けて、夫に話をしながら記していただこうと思います。 私は主人のことを以前は「せいじさん」と呼んでいましたが、現在では「おとうさん」と呼びます。他人には「主人」と言いますが、文中では使い分けて書いてもらいます。

近藤芙美子

 

2019年2月17日

第1話「ご縁と出会い」

枝璃貴子さんとの最初の出会いは、詩人の松永伍一先生との関係であり、17年前2002年4月の成城アシエットサロンで行われた松永先生の会であったと記憶しています。

その時の枝璃さんは物静かで理知的な口数の少ない方と感じました。別れ際に「これからよろしくお願いします」との言葉が印象的でした。

その年の7月に、田無神社の隣にある「コール田無」でのコンサートのご案内を頂き、松永先生もゲストでお話をされるとのことだったので主人と一緒に聴きに行きました。

歌声が綺麗で透き通った「何と美しい声だろう」と思いました。帰りには松永先生と江島その美さん(詩人)と4人で駅まで歩きながら、「今日のコンサートは良かった。『あじさい』は最高に良かったね」と語り合いました。

近藤 征治
松永先生を囲んて(20年前)

枝璃さんは、松永先生の日本子守歌研究において子守歌からご縁があったようにお聞きしております。松永先生と主人は師弟関係にありますが、私自身、伯父(猪口英雄)と叔父(松永勝巳)、そして、私達2人の縁結びをしてくださった遠縁にあたる猪口多樫さん(歌人)の3人は、松永先生が文学者として上京されるまで俳句、短歌、詩作などの同人仲間としてご一緒に活動されていたそうで、このような関係においてもご縁を感じます。

松永先生は11年前(2008年)に77歳で他界されました。亡くなられる前、ご親族以外に病床に最後に見舞ったのは私達夫婦ではなかったかと思います。先生は「誰にも伝えないようにと言っておいたが‥‥ 」と小さな声で話されました。そして、お父さんと2人で涙を抑えながら手と足と身体をさすってあげました。手をしっかりと握りしめながら最後の別れとなりました。

この度、枝璃貴子さんが我が家でのミニコンサートをして下さって、最初の出会いから17年後このようなことが起ころうとは想像もしませんでした。人の出会いとご縁つながりの不思議なことをつくづく感じております。

天界の松永伍一先生にご報告し、枝璃さん、本田さんには心から感謝申し上げます。

次回は、私自身の幼いころからの事と、目の障害の原因などを書きたいと思います。

◇ ◇ ◇

【枝璃貴子より】

この時の私は離婚して一文無しになり、途方に暮れていたので、暗かったと思います。

松永先生が、離婚したことを知って、心配して電話を下さり、「コンサートやるときはノーギャラでゲスト出演してあげるよ」 と言っていただいた頃でした。

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