2017年6月18日

「故郷での個展」

近藤 征治

 

近藤 征治人のつながりが、網の目のように深く広くそして思いもよらないところまで絡み合って、大きな力になっていると実感しております。人の交わりは明らかにドラマである

「縁ありて人生たのし」ーー 私が光をもらった人びと(松永伍一著 表題より)

◇ ◇ ◇

故・松永先生は詩人・エッセイストであり、文学・民俗・美術・宗教など広範囲にわたる評論でも知られ、とくに子守唄・農民詩・キリシタン・古代ガラスの研究者として著名でありました。

何故冒頭に松永伍一先生の事を書き出したかと云うと、枝璃貴子さんと私の出逢いをつくって下さった恩人であり、「枝璃貴子のボランティア活動を支援する会」の代表である山浦幸雄さんと私は中学生時代の松永先生の教え子でもあるからです(これらの詳細は次回から順次投稿します)。

大川市立清力美術館全景

また、この度の故郷での私の個展開催に際しては、福岡県大川市の企画展として、「松永伍一の詩画展」と同時開催となった不思議なご縁を得たからです。この2つの展覧会は、私の故郷にある「大川市立清力美術館」で、2017年6月4日〜25日まで開催されました。

この美術館は、郷土の画家・青木繁ゆかりのレトロな洋館造りで、福岡県重要文化財指定の建物でもあります。このような高貴な美術館での展覧会ですから、松永先生の詩画展は当然のこととして、何故私の個展が同時に開催されたかと云うと、地元で活躍している中学時代の親友鳥取英記さん(支援の会会員)や、松永先生と親交深かった南米ペルーでの画業30数年の野口忠行画伯や、高校先輩で画友の西隈哲夫氏(同じく支援の会会員)などの故郷の多くの方々や、美術館館長の強い薦めとご支援・ご協力があったからです。

そして思いもよらず驚いた事には、野口画伯の力添えにより私の作品黄昏の妙義30号を大川市庁舎に常設展示して戴く事になりました。

(クリック拡大)
大川市長への 作品「黄昏の妙義」30号の 贈呈式
新聞に掲載された「野焼き」100号の前で
大川市長への作品贈呈式 新聞に掲載された「野焼き」100号の前で

個展の初日には大川市長への贈呈式があり、この時の様子が新聞社3社から取材され、大きく取上げられて掲載されました。その日の夕刻からのオープニング・パーティには木工の街・大川市と生まれ故郷・大木町の行政の幹部やアーティスト、友人知人、親戚関係など46名に出席いただき、私の知らないところで皆さんが声を掛け合って集まってくれたことに感激し、思わず涙が溢れ出てしまいました。

(クリックPDF)
当日の新聞切り抜き 当日のチラシ

チラシのタイトルに近藤征治の夢世界展としましたが、正に75歳にして夢の世界に浸ってしまう事になりました。幼い頃に夢みたことを趣味の範疇で、只まっしぐらにやって来たことがこのような形で表れたのでしょう。しかし、ヨクヨク考えてみますと自分だけで成しえるものではなし、多くの方々の陰の力の賜物だと感謝致している所です。

松永先生のお言葉の如く「人のつながりが、網の目のように深く広くそして思いもよらないところまで絡み合って、大きな力になっている」ことを、全くその通りと実感しています。

私の〈「絵と画人」との出会い(何故絵を描くのか?)〉はネットで「近藤征治」を検索し、〈[PDF]詳しくはこちら〉を検索してみて下さい*。

以上個展の厚かましいご報告です。

注:*掲載元は、枝璃貴子オフィシャル・サイトでこちらからもご覧いただけます。

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2017年5月26日

「ギター弾き語り・道半ば」

山浦 幸雄

 

著者70歳からギター弾き語りを始めました。80歳までに一応の水準に到達する事が目標です。今は丁度その折り返し点になります。

師匠は枝璃貴子さん。シンガーソングライターかつ日本で唯一のソングセラピストです。毎週1回月4回のレッスンを受けに先生の音楽事務所に通っています。

弾き語りは如何に難しいものであるかを痛感しています。なにしろ、左手は弦を抑え、右手は弦を弾くという異なる動き、かつ口は楽譜を見ながら歌う。それもすべてリズムに合っていなければなりません。

さて、小生の進捗状況について恥を忍んで報告いたします。

特に重要なのは基礎練習。「一番退屈なものが一番重要な事」と先生から指導を受けました。

毎年12月には発表が行われます。その演奏中、指が固まり動かなくなったことがありました。緊張とは恐ろしいものですが、これも未熟のせいでしょう。

さはさりながら少しずつ演奏技量が上達していることを実感しています。

4年前から、東日本大震災の支援をしたいとの先生の強い意志を実現するため「枝璃貴子のボランティア活動を支援する会」を立ち上げて、小生と中学時代の友人Kさん、松山在住のNさん、東友会*のSさんとで支援の会の世話役を担っています。東友会の方々にもこの会の会員としてご協力を頂いています。この場を借りてお礼を申し上げます。

著者これまで、気仙沼南相馬が演奏支援の対象地域でしたが、それぞれ仮設住宅が撤去されますので、今年は首都圏に避難されている方々を対象とする演奏活動に重点を置きたいと考えています。「被災地域」から「被災者」へと支援範囲を拡大したいと考えています。また被災者以外の方で困難と闘っている方に対してはソングセラピー活動の糸口をつかむべく検討中です。

平成27年8月胃の全摘手術を受けました。今はすっかり元気です。

ギター弾き語りを80歳までに何とか「それなりに」と思っていますが、「それなりに」ならない場合は90歳までに「それなりに」を延長する必要があります。ギターの腕前と寿命との大げさな競争に引きこまれている後期高齢者です。

◇ ◇ ◇

注:*東友会→元勤務先のOBで組成されている団体 (本稿は東友会の同人誌「東友」2017年5月に掲載されたものです)

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2015年8月7日

門下生顛末記

「ギターを弾く人は長生きする」

中本 正勝

 

著者スペインでは、おじいさんが可愛い孫娘に「早く未亡人になりたくなければ、ギターを弾く男と結婚するといいよ」と言うそうです。

 

確かに、アンドレス・セゴビアが94歳、パブロ・ピカソが92歳ですから長生き(健康寿命)ですよね。

頭と手を動かすからボケないで、「ピンピンコロリン」と元気で長生きするんだとも云われております。

演奏している時、絵を画いている時、時間の経つのも何処へやら、没頭しているから頭、全身の血流が活性化して年をとらないのでは?

没頭している間、「歳とる時間」が止まって、それに比例して長生き?

 

ギターの弾き語りは、頭と手に加えて「歌う」のですから、もっともっと長生きしそうです。

カラオケが、アンチエージングに良いとかと、云っている人達もいます。

加えて、作詞・作曲すれば、よりクリエイティブで、もっと長生きするのでしょうね。

きっと、先生は、長命でしょうね、条件が揃っていますから。

message-2014

最近、音響関連学会では「ハイパーソニック・サウンド」が話題になっております。

従来、人間の耳で聞こえる高い音は、せいぜい20,000ヘルツ(20KHz)とされてきました。

CDも、20KHz以上の音は、録音されておりません。
「ハイパーソニック・サウンド」は、20KHz以上の音のことです。

 

20KHz以上の音が、人間の脳に影響を与えるとの実験結果が出始めました。

バリ島のガムラン音楽は、100KHzまでの音が含まれていることが実測されております。

そして、「ハイパーソニック・サウンド」は、耳で聞くのではなく、身体で感じ、脳の血流、脳波α波を増やし、ストレス・ホルモンを減少させるなど、心身に良いことが次第に解かってきました。

これは、癒すにも通ずるのです。

 

ギターの音には、他の楽器と同様に「ハイパーソニック・サウンド」が含まれております。

ギターを弾くと、その音は、ギターのボディ空洞で複雑に共振増幅され、中心にある「サウンドホール」と「表面板」から拡散されます。

この音は、当然ですが、ギター奏者にもっとも強く伝わります。

さらに、クラシック・ギターの奏法では、ギターが身体に接しているので、それを介した音が直接身体に強く伝わります(固体伝導)。

このように、クラッシク・ギター奏者は、「ハイパーソニック・サウンド」を全身に大量に浴びることになります。

 

自分自身、毎日練習していて、終わるとスッキリしていることを実感しておりました。

どうやら、「ハイパーソニック・サウンド」のお蔭もあったようです。

 

このように、スペインのおじいさんの話が、音響学的にも裏付けられようとしております。

 

クラッシック・ギターの弾き語りって、ホントにいいことづくめ。

それに、お金もかからないし、百点満点もなく青空天井。

練習しただけ、少しづつ、ホントに少しづつ、ナメクジの歩みのようにだんだん良くなってくる。

これは、お金では買えない、世界に一つしかない自分で磨き上げる人生の宝石。

 

これ以上の表現はないですね。

それでは、この辺で、お後がよろしいようで。

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2015年6月29日

フサ子のギター奮闘記(その4)

「井の頭公園で」

渡辺フサ子


著者私が井の頭公園を訪れて七井橋を渡る時、必ず止まる場所があります。

「ここで写真を撮ってもらったんだわ」と若い日の事を思い出します。今は亡き主人が、結婚する前に初めて私を井の頭公園に連れてきてくれた日、私は25才身長150cm体重42kg、主人は30才でした。

50年後の自分が、ギターを背負って七井橋を渡っているだろうとは想像するはずもない、まぶしいデートの日でした。それから色々終えて1人で暮らすようになってからも時々、井の頭公園を訪れて散歩をしていました。

今年2月25日の午後、暖かくなってきたので、ちょっと公園へ寄ってみました。大勢の人が散歩やジョギングをしています。私はベンチで本を読んでいる人から離れて、池の傍の古い木の根っこに腰かけてギターを取り出しました。「江戸の子守唄」と「初恋」を弾いていたら、小型犬を連れた外人さんが、「きれいな音が聞こえて来たから」と言ってギターケースの上に百円を置いて通り過ぎました。私はビックリするのと嬉しさのあまり、大きな声で「ありがとうございました」とお礼を言いました。これからも一生懸命に弾き語りを頑張ろうと思いました。

私は井の頭公園が大好き、ギターも大好きです。

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2015年5月7日

フサ子のギター奮闘記(その3)

「私の練習場所」

渡辺フサ子


著者私の練習場所は、すぐ近くの都立公園の中です。夏はギターに陽が当らないように、朝6時頃出かけました。それでも日陰を探さなければなりませんでした。夕方になってまた出かけ、今度はセミの大合唱の中、蚊のまつわる腕を振り払いながらの練習でした。秋は陽の落ちるのが早いので、夢中になっていて気が付けば道路添いの街灯の下で弾いていたりして、いつか見知らぬ人が、車を止めて車のライトを向けていてくれた時もありました。春は一番好きです。ちょうちょが舞ってくれたり、毛虫が桜の木の枝にぶら下がって来たり、小さいすみれの花や、タンポポもながめたり。冬は風のない日に陽のあたるベンチを見つけては、あっち、こっちと移動していました。

今また、春が来ました。桜のつぼみがうす紅になっています。青い空とちょっと冷たい風と、なんてぜいたくな時のなかにいられる私なのだと思いながら、くり返しくり返し好きな歌を弾いて見るのです。今年2月で7年目に入り、私は石川啄木の「初恋」を選びました。難しいです。先生は「感情を込めてゆっくり、ゆっくり弾いて歌って下さい」と、指導してくれます。4分の5拍子が、1小節だけあるところも覚えました。私は「初恋」に恋をしながら、「3人の子供を頼らないで、ひとりで生きて行きなさい。」と言い残してくれた亡き主人の言葉を忘れずに、弾き語りを練習していきます。クラッシックギター弾き語りにめぐり会えたこと、本当に良かったと思っています。

今年1月4日風のない午後、私は近くの和田堀公園に続いているサッカー場の入り口手前の、ベンチに座りケースからギターを出し、譜面台を用意しました。サッカー場には数人の大人がボールを蹴っていましたが、静かなお正月気分でした。「若者たち」と「見上あげてごらん夜の星を」を練習していた時、後ろから「クラシックギターですか」と、声をかけてくれる背の高い人がいました。「はい、私は弾き語りを勉強しています。今年は、後期高齢者になります」と答えると、「僕よりお姉さんですなー、何か1曲弾いてみてください」と言われました。私は、「コンドルは飛んでゆく」の楽譜を出して弾いて歌いました。「悲しみの笛のひびく空を」のところまで来た時、一緒に歌いだしたのです。しかも、原語で歌っています。歌い終わると、「ブラボー」と拍手をしてくれました。音楽に詳しい人なのだと思いました。「一期一会ですからね」と立ち去って行きました。5,6分の出来ごとでした。私はその人がどっちを向いて歩いて行ったのか、車のほうへ行ったのかサッカー場へ入っていったのか、私の目は追いませんでした。お年玉を頂いたような嬉しい気持ちだけが残ったのでした。今年はていねいに練習しようと思います。

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2015年4月30日

吃驚仰天(びっくりぎょうてん)

舩水 京子


著者何ということか! 平成27年1月、私は満89歳になった。

もう説経節*(せっきょうぶし)には通えないな。月2回、夜7時から9時まで稽古。家に帰ると夜中12時頃。家の者に来年90歳になる "ばあさん" が夜歩きしている時間じゃない、と言われ、その通り。

説経節は伝統文化財の指定を受けているにもかかわらず、10人中10人が知らないくらい広まっていない。芸能人でもそれに近い。私もそうだった。謡曲が古いか説経が古いか? 説経の方が古かった。だから、未だ続いていると知った時は飛んで行った。只々うまくなりたい一心で。80歳位の時だった。でも同好会の皆さんは、もう10年も前から板橋古典伝承館に集まって楽しくやって居られた。家元は三代目若松若太夫。

今年2月の稽古日、私は早く家を出て「辞めさせて下さい」と家元が来られる前に青木久子様に申し出た。この方は説経節強力総補佐官とでも言うべき、女丈夫である。私はこの方に計り知れない庇護と励ましを受けた。でもその夜は説経節を辞めに行ったのだった。

その次の日青木さんから電話が来た。「舩水さん、家元がね、貴女に名前をあげるって。若松会だから、若松京(わかまつみやこ)、あなたの京子の京は "みやこ" と読むでしょう。チャンスがあったらひとりでも多くの方に説経節を聴いて貰って下さい。頑張ってね」

「えっ !!」吃驚仰天。えっ?、何?、こんなことって或るの! 私はこの事を誰かに告げたくて、昭和23年来の友人、女優の羽鳥桂ちゃん(写真右)に電話した。「えっ? すごいじゃない」

羽鳥桂それから2、3日して彼女から電話が来た。「今ね、片付けものしてたら、亡くなった母に買って貰ったケース入りの三味線が出て来たの、どうせ破れているだろうと開けて見たら、何とも無いの、あっ、これは貴女に上げるしかないと思って、こんな遅い時間だけど電話したの。撥(ばち)もあるはずだけど今見当たらない。出てきたら電話するから」

そうか、私はあの時「人前で弾くんだと今の三味線は駄目、新しいの買わなくちゃ」と言ったっけ。ケースに入れられた三味線はずしりと重たかった。私の撥はプラスチックの白く軽い撥で、3日弾いた。それが4日目、なんと撥の先が欠けていた。色も白でなく象牙色、これは私のではない。それに昨日まであんな真っ白だったプラスチックが何で急に乳白色の象牙になるの? そして角が欠けるなんて、全く解らない。解らないまま、私は今日もこの撥を使って弾いている。

註:*説経節は、日本の中世に興起し、中世末から近世にかけてさかんに行われた語りもの芸能・語りもの文芸。仏教の唱導(説教)から唱導師が専門化され、和讃や講式などを取り入れて、平曲の影響を受けて成立した民衆芸能。 (Wikipediaより)

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2015年4月20日

フサ子のギター奮闘記(その2)

「レッスン開始」

渡辺フサ子


著者最初に、少し値段が高くても音のきれいなギターを先生に選んでいただきました。そしてギターを背負って毎週吉祥寺の先生のお宅へ通いました。レッスンでは汗がタラタラ目の中に入ったり、頭の中はクラクラ、時々先生から「今どこを見ていますか?」と注意されると、私の目は別のページを見ていたこともありました。

3ヶ月過ぎた5月、長野の合宿に参加してみました。合宿の夜、先生と友人と私の3人で、覚えたばかりの「ちょうちょ」を皆さんの前で、ひきがたりの合奏をしたのでした。

翌日、展望台に案内されて眺めた蒼く広い空、アルプスの峰々に感動しました。ギターを習って良かった、皆さんに会えて良かったと思いました。

帰ってきて少し経ってから、私は詩を書いてみました。先生にお見せすると、「とてもいい詩だから、曲をつけてみましょう」と言ってくださったのです。このとき書いていただいた楽譜は、私の大切な大切な宝物になりました。

ちょうちょなの

私は今 「ちょうちょ」なの まだまだドレミファなの

いつか 弾いてみたいあの曲を ギターの ( いと ) は虹色の 音色 ( ねいろ )

なんてすてきな 音色でしょう

私は今 「ちょうちょ」なの まだまだドレミファなの

いつか 弾いてみたいあの曲を ギターの ( いと ) は魔法の 音色 ( ねいろ )

どんなめぐり会い 招くでしょう

そして出来上がった曲は、先生が歌うより本人が歌った方がいいということで、発表会のための練習が始まりました。「出来ない箇所は10回練習してね」「30回してね」とだんだん厳しくなります。でも頑張って練習して行った時は「成果がでていますね!」と誉めてくれるのでした。「間違えて覚えてしまうと、直すのに何倍もの時間がかかるから、毎週おけいこに通うことが大事なのです」と励ましてもくれるのでした。

それまでになくがんばった甲斐があって、発表会では皆さんからたくさんの拍手をいただくことが出来ました。

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2015年4月2日

フサ子のギター奮闘記(その1)

「枝璃先生との出会い」

渡辺フサ子


著者3月17日午後のことです。私がギターのお稽古の帰り、JR高円寺駅で電車を降りエスカレーターに足を乗せた時、前に立っていた少しお歳を召した男性が、私の背中のギターを見つけていたのか、「ギターの先生やっているのかい?」と振り向いて声をかけてくれました。私も悪い気がしなかったので「えー、先生じゃないけど、楽しくやってます」と答えると、もう一度「楽しくやっているのかい」と云ってくれるのでした。エスカレーターを降りると笑顔を見せて、さっさと改札の方へ歩いて行ったのです。その後ろ姿に、なんだか亡くなった主人があの世から私を見つけ声をかけてくれたような気がしてしまったのでした。

私が初めてクラシックギター弾き語りの枝璃先生にめぐり会ったのは、平成20年11月のことでした。

入院していた友人Sさんのご主人をお見舞いに行った帰り、以前から知っていたレストラン(ライブハウスを兼ねる)にSさんを食事に誘ってみました。病院からは歩いて5、6分のところだったからです。レストランの入り口まで階段を上がっていきますと、「城ケ島の雨」の歌声が聞こえてきました。「私はあの時もう泣けてきました」とSさんの後からの言葉でした。先生に会う前に胸が一杯になってしまったというSさんでした。ドアを開け受付で「予約はしていませんがよろしいですか?」と聞くと「著者どうぞ」と言っていただき、入場料をお支払いして席に着いたのでした。テレビに映るスターにはない明るい上品なお顔、それでいてキリッとしている、というのが先生の印象でした。甘い歌声を私はうっとり聴いていましたが、「あじさい」の歌には哀しさと強さを感じ、涙を流してしまいました。

2度目のコンサートのお知らせが来た時、私は1人で出かけました。主人を亡くして2年。淋しい虚ろな心でいる私に、同じ席にいた女性の方が「ギターをやりませんか」と声をかけてくれたのです。弾き語りグループのHさんでした。まるで待っていたかのように、私の心にギターへの灯をつけてくれたのです。私は次の日じっとしていられなくなり、舞音楽事務所へお電話をしたのでした。68歳の冬、2月のことです。

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2015年3月16日

門下生顛末記(その3)

「弾き語り事始め」

中本 正勝

 

著者最初のクラッシク・ギターのレッスン(2011年4月)は、自己流を止めて、基本からやり直しとなり、納得をしながらも、少々戸惑っていた。

すると、先生が遊びのつもりでこれどう?と。

お馴染み「ふるさと」の弾き語りの楽譜。見るとハ長調の主要三和音(C,F,G7)でシンプルな構成、少しトライして、その日は終了。

四国に帰って、落ち着いてから戴いた楽譜をゆっくり弾いて見ると、何とかできそう。その内、調子が出て来て、カラオケとは一味違った面白しろさ。

いい気分で楽しみながら、2回目のレッスン(5月)。

突然、先生から8月の「気のいい仲間」で発表して見ない?と。予期せぬこと故、頭がガ〜ン!でも、この際、「やるきゃない」とハイと返事。これ技術屋魂(難しいことは「やるきゃない」挑戦精神)。

と言うことで、生まれて初めて、楽譜も持たず人前でギターの弾き語り。

「あがる」暇さえないのです。何が何だか解からないまま、何とか終了。舞台から降りる時、先生に深々と一礼、拍手と笑い。

次のレッスンの時、「とても良かったですよ、ほんとに人前で演奏するのは初めてなんですか?」

この歳になると、何でも素直に受け入れなくなり、お世辞かなとふと思うと同時にまんざらでもない気持ち、ウキウキ。

そうですよ、人前で歌ったこともない、いわんや、ギターの弾き語りなぞ。(酔っぱらって、カラオケはありますが)

いま、思い起こすと無理なく暗譜できて、何とかリズムもまあまあだったのは、先生の初心者向けアレンジの妙だったんですね。

シンプルで、美しいアレンジ、これ大好き。

シンガポールのラッフェルズ・ホテルのサマセット・モームの部屋に書いてあったなあ。

「端的に、やさしく表現できないのは本質が解かっていないからだ」(多分この訳で良いはず)

いろいろあって、これビギナーズ・ラックだったんですね。この後、段々深みに入り、ビギナーズ・ラックも何処へやら才能の限界、歳の限界を感じながらも、ご隠居さんの遊びで毎日楽しんでいるのでありま〜す。

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2014年11月21日

門下生顛末記(その2)

「うた」は、ペンより深し」

中本 正勝

著者人生は、歌っている「うた」のようになる。

どこかの国(アイルランド?)で、昔から言われているとのこと。

「文字」でもなく、「言葉」でもなく、「うた」。

「うた」は、「言葉」にメロディとリズムが加わる。

メロディとリズムが加わることで、より心に響くのでしょうね。

クラッシク・ギターの音量は、楽器の中でも極端に小さい。

でも、人々から愛されている。

音色がきれい、心に響くのでは?

この音色は、音声で表現できないものを表現できる。

言葉、メロディ、リズムに加えて、コード(和音)が弾ける。

「望遠鏡を逆で見たオーケストラ」(ベートーベン?)。

クラシック・ギターの弾き語りの表現力は深い、心に響く。

能書きはいいから、何を言いたいのだ??

要は、「クラシック・ギターの弾き語りは、直接心に響く」のでありま〜す。

前説はこのぐらいにして、今日の本題へ。

先日、枝璃さん(先生)の弾き語り「仮設にて」を聞いた。

すうっと素直に入ってきた。

聞いている内に、じわじわっと、被災者のやり場のない、出口の見えない、悲痛な叫びになってきた。

新聞、ラジオ、テレビ等で仮設住宅での暮らしの厳しさは、伝えられている。

しかし、このような心の叫びは聞こえて来なかった。

何故だろう?

やはり、人の心の痛みを感じることのできるシンガー・ソングライターのクラッシク・ギターの弾き語りは、直接、心に響く。

世の流れは、20世紀の経済効率優先の余波で、心の痛みなど本気で取り上げる余裕がない。 そして、最も惨めな人たちにしわ寄せされている。

耐えられない現状だ。

ボランティア活動も、そこまで手が届いていないことが表面化してきた。

現状の課題に真正面から対応するボランティア活動が求められている。

誰がやるのか?

この枝璃さん(先生)のクラッシク・ギターの弾き語り「仮設にて」が、新しいフェーズの質の高いボランティア活動のトリガーになることを期待すると共に心から願っている。

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2014年10月7日

門下生顛末記(その1)

「我、かくして門下生になれり」

中本 正勝

著者それは、親友が主催する「相互塾」のパーティ。

自己紹介で、いきなりアカペラ、澄みきった声で歌う人あり。

懇親会での語らいでも、澄みきったこと変わらず。

ひと月後のコンサートでも、澄みきったこと変わらず。

今時、めずらしいタイプ。

興味津々、次も、また次もコンサートに参加。

四国からわざわざ。

一方、その昔、少しかじっていたクラシック・ギターを50年を過ぎて自己流で始めていた。

先生に習うのは、好きではない。

もう、この歳、自分勝手に楽しみたいのだ。

機会があって先生と話していると、個人指導OKとのこと。

この先生なら習うかと。

その先生が枝璃先生だった。

次の年に入門。

初日、自己流でやっているのなら、弾いてごらんと。

とたん「ダメです、ダメです」と。

「いままでの練習は全部忘れて、一から始めましょう」と。

妙に納得。

自分で作詞・作曲、弾き語りを聴衆の前で。

この先生は、本物だと。

素直に現在に至る。

「継続は力なり」を信じて、毎日練習の今日この頃。

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2014年9月25日

南相馬「訪問日記」

山浦 幸雄

著者2014年9月6日、7日南相馬の被災地を慰問のため訪問した。

メンバーは枝璃貴子さん、本田所長兼マネージャー、山浦の3名。

初心者の私がなぜメンバーに加わったかというと、「70歳から弾き語りを始めた人」がいる。従い被災地の方に勇気を与えるかも、と枝璃さんの考えである。決してギターがうまいから参加したわけではない。

6日、福島から高速バスで2時間弱、原町に本田さんがホテルを予約していた。近隣のホテルも満室状態であった。ほとんど建設関係の人が宿泊しているらしい。

仮設住宅の藤島自治会長にご挨拶、演奏会場となる自治会館を下見して、その後藤島さんの車で小高町の被災地に案内された。藤島さんもこの地にお住まいであったが今は仮設住宅で独り暮らしである。

小高町は人口13000人大きな町である。津波と放射能の汚染で立ち入り禁止区域となっている。

ほとんどの住宅の1階部分が破壊され吹き抜けとなっていた。

所どころに汚染土を入れた黒いビニール袋が整然と並べてあった。この袋も行先を待っているのであろう。

その無機質な風景を見て、私は自分がここに居るのが不思議な感じがした。

7日仮設住宅の自治会館に着き会場の準備に取りかかった。この仮設住宅街は、3058戸のうち170戸が集まっている一角で、かなり大きな住宅街である。

自治会館の壁に貼ってあるスケジュール表をみると、毎日何らかの行事が行われていることが分かった。

藤島さんから、彼の自作「仮設にて」という詩集を読ませていただいた。

この詩集に仮設住宅に住む方々の思いや苦渋が凝縮されていると感じた。

この詩集は本田さんが10冊購入した。

藤島さんは、また我々一行にも丁寧に対応していただき、頭の下がる思いであった。

彼はこの住宅街の精神的な支柱なのだろう。

演奏会場には徐々に参加者が増え40名ほぼ満員の盛況となった。枝璃さんは語りを入れながら15曲を演奏した。参加者は静かに集中して歌や話に聞き入っていた。

演奏が終わると枝璃さんは急遽皆様と懇談を始めた。我々男性は慌てて台所に走りお茶の準備に取りかかった。懇談の途中枝璃さんから私にお呼びがかかり、冒頭のような紹介を受け加藤登紀子さんの「ひとり寝の子守歌」を演奏した。演奏前の手芸の会に集まっていた方々の様子は、明るく元気であり厳しい環境の中で生き抜く強さを感じた。

「見えない先の事を案じて苦しむより、今を楽しく過ごす事が大切」これは藤島さんの言葉であるが皆さんも同じ気持ちなのだろう。

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2014年9月25日

南相馬「歌とお話の会」

本田 健治

著者9月6日(土)に現地に着き、ボランティアセンターに挨拶に行きました。その後、会場の南相馬鹿島区寺内塚合第2仮設住宅集会所に行き、藤島自治会長にお会いして簡単な打ち合わせを行いました。この日集会所は使用されて居らず、簡単にステージの位置等を決めました。当日の参加者数は、40名前後とのことでした。

藤島自治会長さんが被災地を案内して下さる事になり、自治会長さんの車で、枝璃、山浦支援の会会長、私の3人で自治会長さんの出身地の小高町に向かいました。小高町は仮設住宅より原発に近い所で、車で約40分位南下した所でした。途中、海側の至る所で土木工事が行われて居りました。自治会長さんは「あんな防波堤は何の役にも立たないだろう、海が見えなくなって却って目障りになる」また、地元の人に何の恩恵も無いとの事でした。いよいよ小高町に着いたのですが、途中現状の話を聞きながら、私なりに想像していたのですが言葉を失いました。町並みは見た目整然としているのですが、ほとんど家の一階の壁が有りません。朽ちて半壊した家、潰れて屋根しか無い家、解体して空き地になっている所、住人の全く居ない13,000人の町、説明を受けながら、涙をこらえるのが精一杯でした。全く人が居ない町なのに、道路の信号はしっかり働いている事に非常に腹が立ちました。

9月7日(日)午前10時過ぎに会場に着きました。自治会長さんから、午前中長野の諏訪の御柱祭りの土産物の人形造りをしているので、みんなと話しをしませんかと薦めて頂き、作業テーブルにいっしょに付き、人形の作り方等を訊きながら、雑談をしました。見た目は元気そうで楽しそうに笑いながら作業をして、私達の質問にも丁寧に答えてくれました。12時前に、客席の椅子を並べてくださってから皆さん自宅にお帰りなりました。

午後1時定刻に歌とお話の会を始めました。

最初は、35、6人だったのですが、徐々に増えていき予定の40人以上の方が集まりました。皆さんの表情を見ていると、午前中の元気そうな様子が一変していました。じっと枝璃を見つめて、枝璃の演奏を非常にまじめな顔をして、静かに聴いて居ました。

私には、皆さんの深い悲しみ、苦しみ、不安を一気に見たような気がしました。前日の小高町の状況を思い、入居者の多くの人が先の見えない状況に置かれていることを、改めて思いました。

皆さんが真剣に聴いている様子にホッとしたのと、今後のこの会の進め方のきっかけを掴んだ様な気がしました。

休憩の後、テーブルを出して皆さんの話を聞いたり、次回までに日頃思い付いた事などなんでも良いので、メモした物をくださる様にお願いしたりしました。それを詞にして曲を作る事を約束して第1回目の「歌とお話の会」を終えました。

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